婚活するヒロインたち 結婚に役立つ名作案内 「若草物語」「細雪」

名作文学のヒロインたちから現代に役立つ結婚の知恵を学びます。―いろいろあるけれど、最後には笑おう ― 次はあなたがヒロインです。

カテゴリ: 閑話休題

今日は『若草物語』の作者ルイザ・メイ・オルコットのことを、少し書いてみたいと思います。

19世紀当時の成功したキャリア女性

四人姉妹の次女ジョーは、最初の『若草物語』では、主役級の存在感があります。

しかし続編では、末っ子エイミーの存在感がぐっと増してきます。対して損な役回りとなってくるのが男勝りのジョー。作者のオルコット自身がモデルと言われています。

オルコットは13歳の日記にこう記しています。

わたしは年齢のわりに
おとなびているし、
少女っぽいものが
あまり好きじゃない。

人にはおてんばで
変わった子どもだと
思われてるけれど、

母はわたしのことを
ちゃんとわかっていて、
助けてくれる。

 
オルコットが生きた当時のアメリカは、女性の権利主張が政治的に盛んになった時代でした。婦人参政権獲得運動の全国組織が結成されます。
 
そして『続若草物語』が刊行された1869年は、初めて婦人参政権を与えるよう、憲法を改正する提案が出された年でもありました。

『若草物語』で、富と名声を得たオルコットは、自立した女性の理想像とみなされて、後半生は、さまざまな女性の集会や活動に呼ばれています。

オルコット肖像
オルコットの肖像写真(ニューヨーク公共図書館蔵)

作者オルコットの分身、ジョーとエイミー

続編に描かれるジョーは、肩肘張って世間の慣習に逆らっているため、何かと敬遠されがち。ジョー自身も自覚はあって、苦しんでいます。

お金持ちの伯母さんを前にしてのかわいげのない言動で、ヨーロッパ旅行の機会も、エイミーにさらわれてしまいます。

ジョーは、世渡り上手な妹・エイミーには批判的、でもそのスマートな生き方にどこか羨ましさも感じているようです。

エイミーの旅行記の元ネタは?

こうしてエイミーはヨーロッパに旅立ち、家族のもとに旅行日記を送ってきます。その内容は『若草物語』が書かれる少し前、オルコット自身の1865~66年のヨーロッパ体験がベースとなっています。

このとき、エイミーのモデルとなった末妹メイは、実は同行していません。つまり『続若草物語』が書かれた時点で、ヨーロッパを知っていたのは、オルコットだけなのです。

こうなると、ジョーと正反対の性格であるエイミーもまた、作者の分身であるといえると思います。

小)LA TERRASSE 1876 メト美
女性はどのように生きるべきか?(メトロポリタン美術館蔵)


オルコットの分身・二人の姉妹


ジョーという存在は、当時の社会が「こうあるべき」と強制する女性像に「ノー」を唱えたい、オルコットの本音の部分。

しかし彼女がそれだけを主張する作家であったなら、小説が21世紀の現在まで、読み継がれる深みを持つことはなかったでしょう。

オルコットはもう一人、エイミーという分身を描きました。彼女は円滑な人間関係を築き、社会秩序に敬意を表する「理性」の存在。
 
作者自身が「本音と建て前」をよくわきまえているのです。

だからこそ、二人のキャラクターが魅力的に描きわけられ、対照的なキャラである姉妹それぞれの言い分が、心に響くのだと思います。

※オルコットの日記の引用は、『ルイーザ・メイ・オールコットの日記 もうひとつの若草物語』ジョーエル・マイヤースン/ダニエル・シーリー編、マデレイン・B・スターン編集協力、宮木陽子訳 西村書店 2008年 からです。

 


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当時の富裕層の旅行期間は年単位

『続若草物語』で大きな割合を占めるのが、エイミーの「ヨーロッパ旅行」の描写です。

その日数については、日本人の感覚である「数日間」のスケールではありません。数年にも及ぶ滞在が、当時の富裕層のスタイルでした
 
だからエイミーも、何年間も、家族に会えなくなることを前提に、アメリカを旅立っているのです。このとき17歳ぐらいですから、私たちは彼女の旅の様子を追うとともに、エイミーが、少女から一人前の女性になっていく過程を見ることにもなります。

この大旅行の原型となったのが、ヨーロッパの上流階級の慣習であった《グランドツアー》です。


グランドツアーの伝統とは

Wikipediaによると「17-18世紀のイギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った大規模な国外旅行である。」とあります。学問の総仕上げとして実地で見聞を広げる、いわば修学旅行だったようです。

長いもので8年!と言いますから、当時の寿命を考えると、ちょっと驚くような時間と経費のかけかたですね。

ポンペイ 1895 ニューヨーク公共図書館蔵)
19世紀のポンペイは観光名所の一つでした。

さらに「…19世紀に入ってからも、最良の教育を受けた若者たちは、グランドツアーに出かけるのが常であった。その後、これは若い女性たちにとっても一種のファッションになっていった。パトロンとなってくれるオールドミスとイタリア旅行をするというのは、上流階級の淑女にとって教育のひとつとなったのである。」とあります。


グランドツアーは、新興アメリカ富裕層にも流行

グランドツアーは、裕福な男性の特権から、19世紀以降、交通機関の発達で移動が楽になったことで、女性にも広がりを見せ始めました。さらに加えて、成功したアメリカの富裕層が、ヨーロッパへの憧れと、自らの階級を誇示するスノビズムで参入してきます。

お金持ちのキャロル伯母さんも、この流行に倣ったのでしょう。エイミーは運よく、この機会を捉えて、一緒にヨーロッパに渡ることができました。

『若草物語』の作者オルコットが、小説にエイミーの旅行を描写する前、実際にヨーロッパを旅行したのは、1865年のことです。南北戦争で介護の腕前をあげたオルコットが、病弱な娘の付添いとして渡航を頼まれたのでした。
 
1865年はというと、南北戦争が終結し、工業生産等の活況で、アメリカが世界へ躍進する始まりの年でした。この頃はまだアメリカ人にとって、ヨーロッパは「偉大な先進国」として、憧れの対象でした。

ヨーロッパについて、オルコットは『続若草物語』にこう書いています。

こうしてエイミーは
古い世界を見るために
船出していった。

若い人たちの目には
そこはいつも新しく
美しい世界である。

運よくヨーロッパを見ることができて、それを小説に活かせたオルコット、こうして彼女の分身・エイミーの素晴らしい旅は、続いていくことになります。

※小説の引用は『続若草物語』角川文庫 2008年 吉田勝江氏の訳からです。

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梨本宮伊都子妃のパレ・ロワイヤール訪問

エイミーが夢中になった高級ショッピングモール《パレ・ロワイヤール》ですが、日本人では梨本宮妃であった伊都子(1882~1976)という女性が、1909年に渡仏した際、ここを訪れています。

伊都子の父親は鍋島直弘侯爵。彼女は、華族のお姫さまという身分で生まれます。1900年に19歳で梨本宮守正と結婚し皇族となります。結婚後、初めてパリを訪ねたのが1909年3月4日、明治時代のことでした。

彼女の日記にはこう記されています。

パレーロワイヤルといふ所は
仲見世の様な店が
ならんでをる所で、
昔から名高いとみえ、

巴里に行った人々は、
よくここのはなしを
してをったから、
一度みて置度、見物に行く。

なるほど、
ほしいものばかりで、
ハンカチ、指輪など買ってかへる。


パレロワイヤル
 現在もパリの観光名所パレロワイヤールの正面。
 
エイミーは「パレ・ロワイヤールはすばらしいところです。宝石、貴金属、その他いろいろ美しいものがあるのに買えないので気が狂いそうです。」と小説で語っています。

『若草物語』の作者オルコットがパリを訪ねたのは、1865年のことです。それから40年以上の時を経て、今度は日本から、はるばる皇族妃が同じ場所を訪れました。

伊都子妃の場合はさすがに皇族、ここでのショッピングを存分に楽しんだようです。高級店が軒を連ね、ウィンドーショッピングの女性の心弾みは、いつの時代も同じですね。

伊都子妃は、こう書き残しています。

三月下旬、
ぞくぞくと誂へた衣服、
其他出来てきた。

モードの本から抜け出た様な、
あでやかなるものばかり。

日本で作ってきたものなど、
そばにもよりつかれず。


伊都子妃
 伊都子妃もパリモードでさらに輝きます。

 エイミーもまた華やかなパリを楽しむ間に、どんどん洗練されたレディに成長していきます。それはイギリス貴族の青年の心を惹きつけるほどになっていました。

※引用は『梨本宮伊都子妃の日記 皇族妃の見た明治・大正・昭和 』〔梨本伊都子/原著〕小田部雄次/著  2008年 小学館 からです。



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グランドツアーとアメリカ娘

以前の【閑話休題】で取り上げましたが、19世紀になると、ヨーロッパの伝統的な慣習《グランドツアー》に倣って、たくさんの裕福なアメリカ人が、新興国アメリカからやってきました。
 
その時代の小説を読むと、伝統的・形式的な社交に明け暮れるヨーロッパ人の目に、アメリカ娘がどのように映ったていたかがわかって、なかなか興味深いです。


小説『デイジー・ミラー』アメリカの美少女は、天然娘か不良娘か?


作家ヘンリー・ジェイムズの『デイジー・ミラー』は『続若草物語』の刊行から9年後、1878年に出版された小説です。

ジェイムズは、アメリカに生まれ、イギリスで執筆をした作家なので、当時のアメリカとイギリス、それぞれの国の考え方に通じていました。

小説では、アメリカからスイスのジュネーブにやってきた美少女、デイジー・ミラーの無邪気な振る舞いが、社交界の非難を浴びる様子が描かれています。

ヨーロッパ社交界の人々と、ヨーロッパを意識した現地のアメリカ人たちのかたくなな態度が、主人公の男性ウィンターボーンの目を通して描かれていきます。
 
ホテルに滞在中のデイジー・ミラーは、男性と連れ立って歩いたり、夜遅くまで観光しようという意気込みで、旅行を存分に楽しんでいます。

彼女のいきいきとした様子は、21世紀に私が読む限り、ごく普通の女の子にしか思えません。

小)ティソ1875 spring morning メト美
気ままにふるまうお嬢様の評判は?(ティソ1875年メトロポリタン美術館蔵)

ウィンターボーンも、デイジーの美貌に目を奪われて、彼女を好意的に解釈しようとしています。

見たところ、
ミス・デイジー・ミラーは
きわめて無邪気な娘のようだ。

アメリカ娘は、
なんと言ったところで、
根はとても無邪気なものだ、
と人が言うのを聞いたことがある。

一方けっきょくのところ、
無邪気ではないという意見も聞いた。

新興国アメリカからやってくる新しいタイプの女性に、当時のヨーロッパ人が戸惑いを覚えている様子がよく出ています。ウィンターボーンはこう思うようにしました。

ミス・デイジー・ミラーは
蓮っ葉な娘―美しいアメリカの
お転婆娘であろうと
考えたい気持ちだった。


19世紀当時は、未婚の若い女性の振る舞いに厳格であったことが、この小説を読むとよくわかります。また上流社交界の格付け意識も、イヤらしいほどにはっきりと存在していました。
 
ウィンターボーンは伯母を見舞いますが、その伯母はミラー一家を否定します。

彼は伯母の口吻から推して、
ミス・デイジー・ミラーの
社交界における地位の
低いことにすぐ気がついた。

彼はこう伯母に尋ねます。

伯母さんは
あの人たちを立派な連中とは
お思いにならないんですね。

すると伯母さんは…

「まるで卑しい人たちだよ」
コステロ夫人はきめつけるように言った。

あんなアメリカ人は、
まあ、付き合わないほうが
わたしたちの務めだというものだね


二つの小説『続若草物語』と『デイジー・ミラー』を併せて読むと、没落階級の出身であるエイミーが実のところ、ヨーロッパ滞在中に、どのように受け入れられていたのか、ちょっと心配になってきます。

ヨーロッパでエイミーはどんな立ち位置?

『続若草物語』の中にも、ローリーとニースで再会したエイミーが、嬉しくて馬車から手を差し伸べ大声を出したのが、近くのフランス人に不評だったという描写があります。

エイミーも、ヨーロッパ社交界の目から見れば、もしかしたら奔放なアメリカ娘と見られていたかもしれません。

イギリス貴族の青年フレッドの財産について、エイミーはとても惹かれています。
 
しかしはたして、フレッドが自分を好きだから―という理由だけで、19世紀という時代に、身分差のある結婚は、スムーズに進行するのでしょうか。

※引用は『デイジー・ミラー』H.ジェイムズ著 西川正身訳 2012年 新潮社 から

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作者オルコットの苦労した少女時代

「貧乏はきらい」と、エイミーにはっきり言わせた作者オルコットですが、これは自身の人生体験と深く関わっているように思えます。

オルコットの父親はエイモス・ブロンソン・オルコットといいます。1799年に生まれ1830年にアビゲイル・メイと結婚し、1832年に作者ルイザ・メイ・オルコットが誕生しました。

この父親は当時としては、とても進歩的な教育思想をもった人物だったようです。しかし理想を掲げた学校経営は理解を得られず、一家はいつも経済的に苦しい状況でした。
 
さらに1843年、父親はマサチューセッツ州の農場「フルートランズ(果物の土地)」で、自給自足の実験的な共同生活を始めました。

オルコットが11歳の時の、この暮らしは大変つらかったようです。一年と経たないうちに、フルートランズでの生活は失敗に終わりました。

小)The House with the Cracked Walls 1892–94(メト美)
理想と現実のギャップにオルコット家は苦しみます。(メトロポリタン美術館蔵)

14歳になると、ルイザは「自分の人生の計画」として、自分の力で必ず、家族それぞれの夢をかなえて楽をさせたいと誓います。

このあたり『若草物語』のジョーのモデルになっただけのことはある、独立独歩の態度です。

作者オルコットが10代後半頃の生活はとても苦しく「家族の貧困のため、彼女は若い頃から臨時採用の教師、針子、家庭教師、家事手伝い、そして作家として仕事をしていた」そうです。

娘盛りの時に、労働に追われる日々を送っていたオルコットですが、その心情は『続若草物語』のジョーの姿で、語られています。

彼女は自分の職務をがむしゃらに、
絶望的に遂行しようとつとめてみた。

しかし心のうちではいつも
反抗的な気持ちでいたのである。


日々の暮らしに直面して、現実的な夢を持つ

父親の理想のせいで、貧しい生活を強いられたことで、オルコットが「経済的に豊かになること」に関心を向けていくのは、自然な流れでした。

自分のわずかばかりの
喜びは軽んじられ、
重荷にはますます重くなり、

働けば働くほど
自分の人生は
つらいものになるというのは、

いかにも不当なことに
思われたからである。

この作者の生い立ちを踏まえて、『続若草物語』でのエイミーの「玉の輿願望」を見てみましょう。

そこには、女性といえどもしっかりとした「経済感覚」や「ライフプラン」を持つべきだ、というオルコットの主張が、示されているように思えてなりません。
 
思考停止でただ男性に依存するだけの女性は、良しとしないオルコット。だから如才なく世間にあわせるエイミーにも、実はしっかりと信念を持たせ、意見を言わせています。

こうしてエイミーが「我」ではなく「個」を持った存在として描かれているため、その行動には爽やかさがあります。

だから『続若草物語』一世紀以上読み継がれる、名作となっているのだと思います。


経済的な夢を叶えてからは…


『若草物語』の成功で、莫大な印税が入ったオルコットは「自分の人生の計画」を実現しました。14歳のときの決意から20年以上の歳月が流れ、オルコットは36歳になっていました。

父ブロンソンの方も、晩年にその理想とした考えが認められるようになりました。
 
オルコットはそのことを喜びますが、次のような姿勢を貫きます。

父の友人たちや、
学校での講義とは、
一線を画して、
関わりを持とうとしなかった。

実体のない哲学にふりまわされた
これまでの経験を思い、
人生の現実を見つめて
生きることを選んだからだった。


哲学の家への小道
楕円の中の建物が、父ブロンソン1879年に開いた「哲学学校」です。(ニューヨーク公共図書館蔵)

※小説の引用は『続若草物語』角川文庫 2008年 吉田勝江氏の訳からです。
※また作者オルコットの人生については『若草物語 ルイザ・メイ・オルコットの世界』文/ウィリアム・T・アンダーソン 構成・訳/谷口由美子 写真デイヴィッド・ウェイド 求龍堂 1992年  から引用また参照しました。

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1868年オルコットは『若草物語』の執筆開始!

 
少女の頃から書くことの好きだったオルコットは、17歳の頃から作家になりたいと思い始めます。

 22歳で初めての本『花のおとぎ話』(1854年)を刊行した彼女は、物語を書いては、その稿料で家族の生活を支えていくようになります。
 
そして1868年の5月、35歳のオルコットに「少女向けの物語」の依頼がやってきました。その経緯は、彼女の日記で知ることができます。編集者のナイルズ氏が依頼主でした。
 
妖精物語の件で
父がナイルズ氏に会ったところ、
氏が少女向けの物語を
ほしがっているというので、

「リトル・ウィーメン」
(『若草物語』)
という題で書きはじめた。

とうとうオルコットは、彼女の代表作であり永遠の名作となる作品の執筆に着手しました!

しかしここで意外なことを記しています。

乗り気ではなかった『若草物語』の執筆!?

だからこつこつ書いてはいるけれど、
こういう作品は楽しくない。

わたしは女の子が
ぜんぜん好きでないし、
姉妹のほかはあまり知らない。

男の子の方にシンパシーを感じるところは、まさに『若草物語』のジョーですね。だから最初は書くことに積極的でなかったことがわかります。

しかし彼女は次のように考えました。


でも、姉や妹と演じた
風変わりな芝居や
実際の体験談は

もしかしたら
おもしろいかもしれない。

小)Lady Seated at a Table Dancing Figures 1775 or later メト美
オルコットは約2か月で『若草物語』を書きあげます。(メトロポリタン美術館蔵)

自分の家族の日常を小説に反映させること―こうして『若草物語』の方針が固まりました。

6月になると、編集者のナイルズに最初の十二章の原稿が送られます。その反応はというと…

氏は単調な作品だという。
わたしも同感だけれど、
せっせと書きつづけている。

試しにこの路線に
取りくんでみようと
本気で思っている。

穏やかな日々の暮らし、それを魅力的な物語にすることにオルコットは挑戦します。 

なぜならいま
少女向けの生きいきとした
飾り気のない作品が
大いに必要とされているし、

おそらくその必要を
わたしが満たせると思うから。

19世紀に生きた、アメリカのある家族の日常が『若草物語』という「永遠の物語」に生まれ変わろうとしていました。

※オルコットの日記の引用は、『ルイーザ・メイ・オールコットの日記 もうひとつの若草物語』ジョーエル・マイヤースン/ダニエル・シーリー編、マデレイン・B・スターン編集協力、宮木陽子訳 西村書店 2008年 からです。

 

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『若草物語』刊行間近!

1868年の7月15日
、オルコットは『若草物語』を書きあげて、402ページの原稿を編集者に送りました。8月26日には「全ページの校正ゲラ」が届き、オルコットはこう思います。

案外いい作品だと思う。
ぜんぜんセンセイショナルではなくて、
素朴で真実味がある。

当初は乗り気でなかったオルコットは、手ごたえを感じ始めていました。次のような自信があったからです。

それもそのはず、
わたしたちはほとんど
このとおりの人生を
送ってきたのだから。

この作品が成功するとしたら、
それは実際にあった話だからだろう。

これはいけるかもしれないと、オルコットに原稿依頼をした編集者ナイルズも感じ始めます。

ナイルズ氏もいまでは
気に入ってくれている。

すでに原稿を読んだ
お嬢さんたちが「素晴らしい!」
といってくれたそうだ。

少女向けに書いた作品なので、
少女が最高の批評家。
だからわたしは満足。

そして10月、妹
メイが挿絵をつけた『若草物語』は、出版されてすぐに大評判となりました。
 
オルコットが幸運だったのは、ナイルズ氏のいるロバーツ・ブラザーズ社が、親切にも「著作権を保持しておくように」と忠告してくれたこと。これはビジネス上、とても重要なアドヴァイスでした。

『若草物語』がベストセラーとなった時、オルコットに印税という富をもたらしてくれたのです。

A Gorge in the Mountains 1862 メト美
オルコットの少女時代の夢はかなえられました。(メトロポリタン美術館蔵)
 


オルコットは後に日記にこう書いています。

「単調な作品」は醜いアヒルが
産んだ初めての金の卵だったのだ。

醜いアヒルと自分をたとえるオルコットはこの時35歳。少女時代に誓ったこと―自分の手で家族に楽をさせるということを『若草物語』で実現させたのでした。

小説の成功を知る直前の10月8日、母アッバ・メイの68歳の誕生日を祝った時、オルコットはこう記しています。

母は老衰がはじまっているようだ。
これからは年々変化が加わることだろう。

精力的で物事に熱心で
家庭的だった母を、
時が変えていくのだ。

オルコットの成功を前に、現実には衰えを見せ始めた母親です。しかしオルコットは『続若草物語』では最終章までいきいきと、愛する母親が家族の要となる姿を描き留めていきました。

※オルコットの日記の引用は、『ルイーザ・メイ・オールコットの日記 もうひとつの若草物語』ジョーエル・マイヤースン/ダニエル・シーリー編、マデレイン・B・スターン編集協力、宮木陽子訳 西村書店 2008年 からです。



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『若草物語』のヒットですぐに続編に着手

「少女向けの生きいきとした飾り気のない作品」を私なら書けると『若草物語』を執筆したオルコット。しかし編集者には、当初「単調な作品」だと言われてしまいます。

結果は、物語はベストセラーとなりました。本の成功に気をよくした出版社から、オルコットはすぐに続編の執筆を依頼されます。

1868年11月1日のオルコットの日記にはこう記されています。

『若草物語』の第二部に着手。
一日に一章書けるので、
一か月で書きあげられるだろう。

第一部がちょっと成功したので、
元気が出てきた。

そしてオルコットは自分の書いた第一部を読み返して、こう感じます。

いまだから気づくことだけれど、

「マーチ家の人たち」を
とてもきまじめで、
とてもいい人たちに
描いている。

第二部では、登場人物の
その後の姿から
書きはじめられるので、
空想力を駆使して、
もっと娯楽性を加味しよう。

それが、このブログでご紹介している『続若草物語』です。

確かに舞台が華やかにヨーロッパに移ったり、また結婚にまつわるリアルな会話が交わされたりと、より内容が、刺激的な感じになっています。
 
第一部の『若草物語』を読んで、続編が気になるファンからは、オルコットのもとに次のようなリクエストが寄せられ始めました。

女性の最終目的は
結婚しかないかのように、

若いお嬢さんたちからは、
主人公の女性たちを
結婚させてほしい
という手紙が来る。


小)An Interesting Story (Miss Ray)William Wood1806
若いお嬢さんたちは四人姉妹の行く末に興味津々。(メトロポリタン美術館蔵)


最初の『若草物語』で、長女メグはジョン・ブルックと結婚しました。ジョンは、お隣に住む裕福な少年ローリーの家庭教師だった人物です。

続編の次なるカップルは、その幼なじみのローリーと次女のジョー、当然ファンとしては二人が結ばれることを期待するでしょう。

しかし「女性の最終目的は結婚しかないかのように」と日記に記したオルコットは、次のように書いています。

でも、わたしは
読者を喜ばせるために

ジョーをローリーと
結婚させたりはしない。

 こうして、オルコットの分身である物語のジョーは、ローリーのプロポーズを断りました。そしてオルコット自身はというと「愛よりも自由の方が良き夫」と生涯を独身で通しています。
 
それでは、彼女は現実的に「結婚そのもの」を否定していたのでしょうか?

そのあたりは少し違うように、私には感じられます。


オルコットが当時の女性に伝えたかったこと

 

『続若草物語』で、結婚して帰国したエイミーが実家を訪ねるシーンがあります。その時のエイミーの「良き」変貌と成長ぶりを、いきいきと伝える描写からは、オルコットが「結婚すること」を全く否定していたようには思えません。

オルコットが否定したかったのは、当時の「女性とはこうあるべき」という押し付けの価値観だったのではないでしょうか。

自分の生きたい人生のために、主体的に選択すること―それは世間的には申し分のない男性、ローリーを断る勇気として示されました。

もちろんオルコットは、そのリスクもジョーの焦りとして描いていますし、「我を張る」ことと「自己主張」の取り違えの危うさも理解しています。

現代でも、いつのまにか刷り込まれている「こうあるべき」はたくさんあります。
 
それに振り回されず、さて自分はどう生きたいのか、どう生きたら幸せなのか―エイミーのような常識的な判断と、ジョーの自己主張とを併せもって、かじ取りをしていくことが大切だと思います。

※オルコットの日記の引用は、『ルイーザ・メイ・オールコットの日記 もうひとつの若草物語』ジョーエル・マイヤースン/ダニエル・シーリー編、マデレイン・B・スターン編集協力、宮木陽子訳 西村書店 2008年 からです。 




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