『続若草物語』の不器用なジョーと如才ないエイミー
初めて私が『若草物語』を読んだのは小学生のときです。そのときは正直「良い娘」になる話ばかりが書かれている感じがして、物語をあまり好きになれませんでした。
しかし優れた小説は、時間の経過に耐えるものです。
大人になると、この「良い娘になること」の背後に見え隠れする、作者オルコットの「女性として自立したい!」という叫びが、聞こえてくるのです。
続編では、お年頃になった次女ジョー(作者自身がモデル)は「自己主張」が強過ぎて、男性に敬遠されがち。損な役回りばかりで、ままならない人生に焦りを感じ始めています。
対する末っ子の四女エイミーは、女性のかわいげ全開。周囲の人々を惹きつけ、如才なく自分の夢を実現してきます。
私は、この姉妹が大人になる過程を描いた『若草物語』の続編がとりわけ好きです。今も昔も、若い女性の悩みは変わらないなあと、実感させられます。
いつ結婚できるのか、そこに何を望むのか、またうまくいく夫婦関係の秘訣などです。
女性はお人形さんのようにかわいらしく?(ニューヨーク公共図書館蔵)
当時、女性には選挙権すらなく、仕事での自己実現が難しい時代でしたから、結婚は「人生を左右する」大きな出来事でした。
ですから続編では、結婚に関して思いのほか、高望みな野心・打算的な意見や会話も登場します。
たとえばエイミーは、母親に宛てた手紙にこう書きます。
私たちのうち、
ひとりぐらいは、
裕福な結婚をしなくては
ならないと思います。
メグはしませんでした。
ジョーにはそんな気はないし、
ベスは今のところはできないでしょう。
だから私が、とエイミーは「裕福な結婚」で、みんなが楽しく暮らせるようにしたいと宣言します。優し気な末っ子エイミーの、小気味いいほど、はっきりとした意思表示です。
この持ち前の行動力と魅力で、エイミーは自分の望む運命を切り拓いていきます。
一方、次女のジョーは「自立する女性」を目指して、有り余るエネルギーを持て余し、なかなか現実と折り合いがつけられません。
そうこうするうちに、娘時代はだんだんと過ぎ「オールドミスになるかも」という、寂しさと不安が忍び寄ってきます。
作者オルコットの分身、ジョーとエイミー
「女性として」賢く振るまえるエイミーと、女性である前に「人として」の権利を主張するジョー。
作者オルコットは、二人のキャラクターを描き分けることで、バランスをとりながら「女性とは、どう生きるべきか?」という問題に対して思考錯誤をしているように感じます。
オルコットの生きた時代は、アメリカで婦人参政権運動が高まった時代でした。
男女平等の思想が登場し、そうした背景の中で書かれた小説であると思うと、また姉妹それぞれの言動は、興味深く、この視点からでも魅力的な物語となっています。
作者オルコットのポートレート写真。意志の強さを感じさせる眼差しです。(ニューヨーク公共図書館蔵)
※小説の引用は『続若草物語』角川文庫 2008年 吉田勝江氏の訳からです。
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